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第15章 伝統工芸品

寧波象嵌

寧波象嵌は中国伝統手芸品の中できわめて優れたものである。完璧な工芸品として登場したのは、隋?唐の時期である。清の乾隆?道光年間、寧波の骨と木の象嵌は独特な地方の風格と精巧で、世界に名が知られ、揚州の螺鈿と広東の象牙象嵌に劣らない存在である。寧波象嵌は「貢ぎ物」とされ、今も北京頤和園の楽寿堂に寧波の骨木象嵌が陳列される。

寧波象嵌の手法には高嵌入と平嵌入の二種類がある。前者の模様は突き出ているのに対し、後者の模様は木材と並行して嵌めている。その作り方は主に象牙、螺鈿、木片、銅などを使って、木材に嵌め、彫刻刀で彫ってから線を引くことである。気高い装飾物としながらも、また実用性もある。

寧波の骨木象嵌は朱金の木彫り、漆の工芸品と同じように、唐代に鑑真和尚によって日本に伝わったという。日本の唐招提寺の中に陳列されている骨木象嵌家具、漆皿などはほとんど明州から持っていた工芸品である。僧侶たちが使った「紫檀碁盤」「双陸盤」などの器皿も明州の職人によって作られた寧波骨木の象嵌である。嵌めた図案は古雅で、彫刻は入念で、腕前は優れている。日本の真人元開の『唐大和上東征伝』によると、鑑真が日本に持っていたものは、刺繍像、画像、彫像、金銅像……骨木象嵌の仏像などという。その像と寺院建築の方法は、日本の塑像と寺院彫刻の手本となる。

寧波骨木象嵌の技術は更に古きを生かし、椅子、揺り椅子、机、茶卓、置物、大きい戸棚、小さい戸棚および屏風、装飾品などに活用され、その技はとても優れている。中国画にそっくり、草花と人物が生き生きしている。

寧波の漆器

寧波漆器の技術は、悠久たる歴史を持っている。7000年前の余姚河姆渡遺跡の中で赤い漆碗が一件発見された。それはこの技術の歴史の長さを物語っている。

中国は最も早く天然漆を発見して使用した国である。『韓非子』には、「尭は天下を禅し、虞と舜はそれを受け、軒山において之を裁き、鋸にて修ったこの跡を削き、漆を流れ其の上に墨し、之を宮に輸し食器と為し…禹は祭器を作り、其の外に墨染し、其の内を朱画し、…」と書いてある。日本においても「漆の使用は、中国の太古から始まった」という説がある。現存の資料から見ると、寧波の漆器はすでに唐代に定着され、そして東の日本に深い影響を与えた。

唐代では、寧波の漆器技術はかなり高い水準に達した。明朝に入ると、更に盛んになった。『浙江通志』によれば、「大明宣徳年間、寧波の泥金彩漆、描金漆器は国内外に名が知られる」という。

寧波漆器は中国の生漆を主要な原料に、木胎が主に、竹切りと竹編を胎とするのもある。その製作は浮花、平花、沈花の三類に分れる。浮花は生漆で塗った工芸品の上に、各種の山水、花鳥、人物、楼閣などの図案を描き、その膜が硬くなったら、金箔を置き色彩を塗る。平花の作り方は、漆の膜に彩って図を描く。沈花は透明な漆の下で模様を描く。唐の有名な詩人白居易は中国の漆器について次のように語っている。「珠を綴り玉を嵌め雲母を貼りて、互に玲瓏たる五金七宝は精巧である」。

寧波の漆器は唐代から日本に伝わっていた。そして長所を取り入れ、短所を補って、互いに影響しあった。唐の高僧鑑真は日本へ渡る前に一度寧波に居住したことがある。多くの寧波漆器を探し集めて、日本へ渡航の際持っていったから、日本の唐招提寺の一部の仏像は寧波漆器の技術を採用したものであると思われている。その後、両国は互に往来し、技術を交流した。例えば、日本の光り漆、金箔漆、羅鈿、雲母貼りなどの技術は、材料の選び方、作業と造型まで寧波の伝統漆器に非常に似ている。日本の正倉院には今なお隋唐時代の漆器が残っている。その他、寧波の漆器の仏像、家具などは日本に入ってきて、日本の仏像と家具の技術にも影響を与えているから、次第に日本の民族芸術の時絵(漆の上に金銀の絵を描くという技術)になった。

一方、日本の漆器の技術は寧波に入ってきて、直接寧波の漆器を影響した。例えば、日本の仁明天皇(西暦834~850年)の時、遣唐使船が明州に上陸した。遣唐使が持たれた土産には漆器があった。中国の返礼にも家具や漆があった。奈良正倉院の蔵品の中には唐から持ち帰ったものも少なくない。五代、南北宋朝の時、寧波は日本に通ずる重要な港になって、日本の螺鈿漆器、金銀時絵、日本絵、屏風、螺鈿時絵二蓋箪笥、花鳥浮世絵、海図時絵、金銀の器などはとても人気がある。1173 年、日本の後白河天皇に献上した明州刺史からの贈り物の中に、金箔箱と金箔箪笥がある。日本の漆器技術は寧波から伝わったという説もある。ところが、宋代になってから、日本の時絵は寧波の漆よりも秀でていた。そして中国では人気商品になった。そこで、朝廷が日本に技術者を派遣し、その技術を学んでもらった。再度日本から中国に輸入してきた。『七修類稿』には、「其の漆の理を精通し、それぞれの色は皆合える。命令を受けて渡日、漆器を学び、日本の漆は尤も精妙である。」「山水と人物、表情は躍如としている。臨模しても及ばない。古いほど鮮やかである。東洋日本漆と呼ぶ」と書いた。明代、日本の遣明船は寧波に通ずる。日本から持ってきた漆器には屏風、金の漆器などがある。寧波から輸出したものには、赤い漆器、皿、机、金箔漆器、朱漆などがある。史料の記録によると、明朝が始めて日本に贈った物は朱漆の化粧用金轎(金付け、器物の模様に金箔付け)、朱色金椅、ベッド、洗面台、金箔碗などであるという。日本の漆器も寧波の人々に好まれていた。『寧波府志』によると、「寧郡は海洋に近い。税関を設けてから、外国の諸商品が集まり、例えば漆器など、住民は皆それをまねて作る。洋製のものに及ばないが、民間では利益を設けている。」という。ここでの「洋製」は日本の商品を指している。聞くところによると、寧波漆器の金星漆(雨雪、細金)は明の宣徳年間に、寧波人は日本のデザインをまねて発展したものであるという。明の中葉、日本商人が寧波で貿易をして、多くの日本漆の家具を持ってきた。近年、寧波の鎮海、奉化などでは日本の漆器工芸品が多く発見された。その製作上のパイナップル模様、金描き、酒具、彩りなどの技法及び造型は、皆寧波民間の伝統家具の漆器と類似しているから、寧波と日本の漆器交流史の証となっているでろう。絶えずに交流して長所を取り入れ短所を補うため、双方の漆器技術が互いに高まった。

寧波漆器は長い歳月を経て、現在では寧波の重要な輸出工芸品になった。主な製品は、屏風、椅子、茶卓、果物皿、戸棚、書棚、テーブルなどで、彫刻と造型が本物そっくり、立体感を感じ、煌き極めて精巧である。

竹細工

竹黄という竹細工は、竹の青い皮を剥いて、適当な大きさに切った竹を煮て乾かして青みを消し、彩り、漆塗り、造型加工をして作った工芸品である。寧波の伝統工芸品の一種である。

竹刻の芸術は中国では悠久たる歴史を持っている。明の嘉靖万暦年間、嘉定の朱松林三代の家族があって、宋?元の風景を描き、竹に画を刻み、当時の人々に好まれ、それを得た人はまるで宝物を得たように嬉しく、後世の人々がその技法を真似たと伝わっている。清代に、浙江あたりではモウソウチクが豊かに産出されるため、原材料を入手するのはとても便利であるから、竹刻の名人が次々と輩出し、世界に名が知られ、多くの作品が宮廷内にも選ばれた。

寧波市管轄の奉化地域はモウソウチクの主要産地であり、竹黄の竹細工の歴史は100余年あった。新中国が創立する前に、奉化市内には「挹素斎」「貧民芸術所」、「竹器公司」があって、多くの竹細工を作っていた。寧波博物館に展示されている多種の竹刻品はその実証である。

竹黄の製作には、筒が大きく節の長い新鮮なモウソウチクを選び、青皮を剥き、内層の2ミリ竹を取って、竹を煮て平らにしたのち、木版や竹片の上にしっかりと合わせ、磨いた表面に山水?人物?花鳥などの模様を彫刻する。竹黄の色が鮮やかで、まるで象牙のようだから、漆を塗ってエナメルをかけると、更に目を奪うようになり、玉彫、漆器に匹敵できる。

竹細工は、寧波各地に多く生産されているが、奉化の竹黄が最も有名である。100余りの品種があって、例えば鏡箱、手提げ籠、花瓶、電気スタンド、碁盤、茶箱、おもちゃ、大型屏風など、彫刻した人物?花鳥が生き生きしている。彫刻の作品には、中国画の伝統的な線描があり、また篆刻の雄勁な金石刻の特色もあり、実用と観賞を一体化している。

寧波絹織物

歴史上、全国の三大対外貿易港の一つ、アヘン戦争後「五つの通商港」としての寧波は、国内外で一番名高いのは絹織物である。その地位と知名度が、杭嘉湖地区よりかなり抜けている。

絹織物の原料は蚕糸である。カイコを飼えば先に桑を植えることである。寧波は山を背に海に向かい、海岸地域には大量の沖積平原があり、山岳地帯には丘と砂地があり、また湿度が高いため、桑の栽培と蚕の養殖には最適である。文献によると、桑を植える歴史がかなり古い。『爾雅』には「女桑、即柹桑」と書いてある。どうして女桑を称するのか。『捜神記』には次のような記載がある。昔々、ある人が遠い所へ旅をしている。家にはたである一人の娘と一匹の牡馬を残している。娘は父親に会いたくてたまらないから、「もし父を連れて帰ってくれるならお嫁さんにしてあげてもいいよ」と馬に話しかけた。馬がその話を聞いてすぐ手綱を切って喜んで去った。父は馬を見たら、家には事故が起きたろうと疑って、馬に乗って家に帰った。その後、馬は娘に会うたびに、躍り上がる。父はとても不思議であった。そっと娘に聞いて、娘はすべてを父に教えた。父は馬を射殺して皮をはいで乾した。娘がふざけてその皮を踏み、「馬の分際で人間をお嫁さんにもらいたいなんていけない」というと、馬皮が娘を包んで飛び去った。数日後に庭の大木に娘と馬の皮がひっかかっていた。どちらも蚕になって木の上で糸を吐いている。現在、民間では蚕のことを「娘」と呼ばれているのは、このような古い伝承から流れてきたのであるろう。桑の木を「桑樹」と言う。「桑」は「喪」の近似音を取っている。

実は、寧波地域では桑の栽培と蚕の養殖の歴史は、少なくとも7000年前の河姆渡に遡ることができる。河姆渡の遺跡から出土した象牙彫刻模様の形器が其の物証である。蚕の絹織物についての事は、多くの古典に記載されている。『漢書?貨殖志』によれば、「殷国の盛…冬に民は既に入り、同じ町の婦人たちは相次いで夜織り、女工は一月か四十五日を経て、必ず従う者は、灯りを省き、巧拙が同じ、習俗を合わせる。」という。当時、女性の夜勤は相当な規模になったであるろう。女性がどんな材料で編物をしたのであろうか。『後漢書?楽羊子妻伝』によれば、楽羊子は遠く師を探し学び、一年後帰った。妻がひざまずいて其の故を聞き、羊子が答えた。久しく行ったから懐かしくて帰ってきたのである。別に何でもない。妻はすぐ刀を持って機に向えて言った。この機はカイコから生まれ、機杼に成り…」と。以上のように2000年前には、女性がすでに蚕糸で衣類を編んだ。唐?宋の時期に、寧波(明州)の西郷には蚕を飼う家は千軒あって、毎年万斤ぐらいのシルクを産出している。明の詩人趙謙は次のような詩を書いた。「呉蚕眠起正紛繧、桑柘斜曛十里雲。白眼看它閑草木、只将紅紫媚東君」という。清の学者沈封は『蚕詞』の中で、「小姑居処最難誇、鎮日養蚕不出家。会見提籠行陌上、鬢辺好挿野田花」と書いた。以上は桑植えと蚕養殖のことを述べたが、次は糸織りを紹介する。清代の寧波詩人潘朗が『繅糸』という詩の中で、「春色斜残陌上桑、繅車上罷織布忙。功成双手憔悴、半与小姑半与姑。」と書いた。当時の寧波では、紡織街?紗の街など至る所にシルク生産の家がずらりと並んでいた。絹織物の音が朝まで響く。最も有名な絹織物には、呉綾?白附子?交梭絞?大花絞などがあり、そして貢ぎ物をしている。唐代の地方誌籍によると、寧波産の各種の貢絞は、夏用の絹であり、軽くて精巧であり、涼しくてあでやかに美しいから、世の中の絶品と思われ、大臣たちに好まれた。明?清時代には、寧波では青寧絲?白生糸?紅線など五素糸紗を生産した。清の乾隆の後期になると、寧波には糸の織機850台があって、シルク?綾?絹?綢?縀などを生産した。清の学者である全祖望が書いた詩には、「末若呉綾誇独絶、大花璀璨状五雲。交織連環泯百結、濯以飛瀑之赤泉。蜀江新水不足捋、浃月四十有五紅。上為黻座補裘闕、女野先芒燭帝室。」という句がある。清の道光年間、寧波地域の蚕の養殖が樟村?密岩のあたりに密集していた。この地域では 90%の農家が蚕で生計を立て、年間五万斤のシルクを生産していた。万斯同は『鄮西竹枝詞』の中で、「独喜林村蚕事修、一村婦女幾時休、織成広幅生糸絹、不数嘉禾濮院紬」と書いた。後に科学技術の発展に従って、絹織物の生産は手工から機械化してきた。

寧波の絹織物とその技術は、昔から国内外に知られている。そして対外貿易の重要な商品にもなっている。唐代、江蘇あたりの絹織物とともに日本まで輸出した。それを「唐綾」と称され、日本全国に人気があった。日本の学者藤原定家が『明月記』の中で書いたように、「近年上中下の隔てがなくなり、皆「唐綾」が好きでぜい沢になった。またこれまで貴重とされた唐の錦が織り手によって模作が成功した」。その紡織技術は急速に寧波から日本の博多港まで流行り、日本古代絹織物業の中心になって、その紡織方法を「博多織り」と言い、そして偽の「唐綾」も現れた。

寧波の磁器

寧波磁器は悠久なる歴史を持っている。寧波市管轄の余姚市の磁器の歴史は少なくとも 2000 年以上の越窯青磁にさかのぼることができる。

寧波は中国越窯青磁の発祥地である。専門家の考証によると、中国では 8000 年前から陶器があったが、磁器の製造は東周時代に始まったのである。当時の磁器を「原始青磁」と称され、後漢の時代になると、青磁の生産を始めた。寧波が古代の越国に当たるから、それを越窯と呼ばれた。越窯遺跡は慈渓市鳴鶴鎮西栲栳山麓の上林湖の周辺にあり、白沢湖?杜湖?古上岙湖?古銀錠湖などもその一部である。周辺に古窯が120ヵ所ある。後漢から焼き始め、唐?五代から盛んになり、宋代まで続いた。後漢から隋代まで、磁器の焼き方が古風で質朴であった。唐代に入ると、対外通商の発達及び商業の繁栄に従って、焼き方がきめ細かく、氷玉のような磁器が生産され、朝廷に捧げる貢ぎ物とされた。徐寅の『貢余秘色茶盏』詩には「捩翠融青瑞色新、陶成先得貢吾君。巧剜明月染春色、軽旋薄冰盛緑雲。」と書かれ、貢窯青磁の奇妙を称賛した。上林湖の貢ぎ物青磁は、胎質がきめ細かく、種類が豊富である。唐の詩人陸亀蒙が『秘色越器』の中で「九秋風露越窯開、奪得千峰翠色来。好向中霄盛沆瀣、共稽中散戦遺杯。」と詠んだ。五代十国になると、銭越王が中原への貢ぎ物の青磁にはすでに釉付けの技術を使った。金、銀、銅で縁線を嵌め、それぞれ「金扣」、「銀扣」、「銅扣」と称し、刻、画、鏤、堆などの手法で模様を定型した。禽獣、金魚、草花、人物の図案があり、技巧は熟練、構図は斬新、題材は広範である。蝶々舞、水のオシドリ、蛟、鳥など、人を引き付ける図案で構成される。

越窯は光り輝いてきらきらと透明な釉の色と多彩な図案で世に名が知られている。陸羽は『茶経』の中で語ったように「碗越州上、鼎州次、数州次、岳州次、寿州、洪州次之。或邢州所越州上、殊不為然。蓋邢磁器如銀、越磁類玉、邢不如越一也、若越磁類雪、則越磁類氷、邢不如越二也、邢瓷白而菜色丹、越磁青而翠色緑、邢不如越三也。」越窯磁器が精巧で美しい。

上林湖の越窯青磁が朝廷への貢ぎ物としてかなりの数量があった。年に 14万件に達したこともある。貢ぎ物のほか、外国にも大量に輸出されていた。上林湖は海上運送が便利であるため、越窯青磁が当時の寧波の主な輸出品の一つとして、明州港を経由して、日本?高麗?ベトナム?カンボジア?マレーシア?フィリピン?インドと東アフリカ?北アフリカなど20余りの国家に輸出されていた。現代のインド?イラン?エジプト?日本などの港遺跡から、皆越窯青磁の遺物が発掘されたので、寧波は「磁器の道」の出発地であることが明らかになった。

越窯青磁は玉のような色彩で、その質は氷のようであるが、すっかりと常套を脱している。唐代の詩人施肩吾が詩をに「越碗初盛蜀茗新、薄煙軽処撹来勺、山僧問我収何処在、欲道琼浆却畏嗔」と書いた。

余姚の磁器は越窯磁器の上に更に改新した。それが越窯の技術を受け継いで、数十種類の調合をしたから、余姚産の細磁器と骨灰磁器が誕生した。余姚の細磁器は「玉のような清潔、鏡のような光、磬のような音」という特徴を持っている。品質は景徳鎮の磁器と匹敵できるほど優れている。名式の食器が白くて羊脂のようであり、清潔で玉のようである。釉がきらきらして透明であり、種類が多様で、様々な品種がある。人物と動物の表現が、生き生きとしている。

寧波の莚

莚は寧波市鄞州区の重要な特産物である。黄古林あたりの莚は歴史が長く、品質が良い。黄古林あたりの気候と土壌が莚に適するため、草の色合いが潔白兼緑で、太さと細かさが平均であり、まっすぐ伸ばしている。草の壁が薄くて強靱であり、芯が豊満で弾力性がある。引っ張りに強くて切れにくい。そして素晴らしい技術を持っているから、莚の品質には優良、頑丈、柔軟性がある。携帯には便利である。使わないときは筒に巻けば小さくなる。使う時、温い湯で拭いたら、つるつるしているだけではなく、香りが出る。白麻或いは緑麻を莚の補助材料としているが、白麻の莚が特に良い。

黄古林あたりの莚は長い歴史を持っている。『四明郡志』によると、唐代に、寧波の莚がすでに各地へ販売しているというので、1000 年余りの歴史を持っている。寧波は全国の三大対外貿易港の一つとして、宋?元?明のそれぞれの時代に、寧波の莚が特産物として海外へ販売されていた。清の時代には、寧波莚は生産の最盛期に達成し、国内販売のほか、東南アジアの各国とヨーロッパ?アフリカなどの国々へ輸出され、重要な輸出商品となっていた。1954 年、周恩来総理がジュネーブ会議に出席した時、わざわざ四十条の寧波莚を持って行き、国際友人に贈ったら、大変人気を博したという。

寧波の莚は品質が良く、品種が完備である。また、技術が優れているから世界に名が知られている。史上、寧波の莚は、金国の兵隊を撃退させるに大いに貢献した。事件の発生は南宋時代に遡り、『仏祖統記』、『寧波府志』によると、康王趙構が南宋を創立した後、臨安に遠く、勢力がまだ弱いから、金国の兵隊を防ぎ止めにくかった。建炎三年(西暦1129年)に臨安を放棄し、臨時に明州に駐在した。明州が海を背に向かっているから、軍船に備え、いったん金国の攻撃を受けたら、帆を揚げて海に出られる。建炎四年の正月、金国の兵隊は大規模に南方を攻め、銭塘江を渡って、紹興市を破れて、余姚を占めて、明州に近づいた。趙構がそれを聞いた後、慌てて后妃、侍従を連れて、軍船に乗って、定海に向った。当時、明州に駐在した指揮官張俊と副官劉洪道が全力で金国の兵隊に対抗し、無数の敵を殺して、初めて大勝を得た。仕方がなく金国の兵隊は余姚に駐屯し、大元帥の兀術に増援してもらったが、兀術がその戦報を聞いて大いに怒った。自ら兵を率いて明州を侵した。強そうな金兵に向かって張俊が鄞県西郷の高橋あたりで金国の兵隊を迎え撃つ準備をしていた。彼は馬に乗ってこの地域の地形を調査したところ、突然軍馬が滑って仰天した。張俊を莚の田畑に落として泥だらけに濡れた。張俊が起きてふと見ると、馬は莚に滑られ倒した。すると、彼は身の上の泥を考える余裕もなく、金兵に抵抗する大義を優先しなければならないから、急いで地元の人を招集して、民家の莚を全部大通りに敷くように動員した。百姓はそのことを聞いたら、郷土を守るため、相次いで参戦し、次から次へと莚を道路に敷いた。翌日、宋軍の大隊が高橋の下で潜んで、小隊が金国の兵隊を迎え撃ち、ちょっとの戦いで宋軍がすぐ青草の小道に沿って撤退した。金兀術が良いチャンスだと思って、大軍で追いかけた。思いがけず軍馬は莚に滑られ、人はのけぞり、馬はひっくり返った。後の騎兵は前の情況が分からないから、鞭を打って飛来したが、同じく滑って転ばれてしまって、大騒ぎになった。この時、橋の下に潜伏した宋軍と義兵が一斉に殺到した。この戦いで金国の兵士の血が河のように流れ、金兀術を落胆させ、敗退した。清の有名な学者万斯同が『鄮西竹枝詞』に書いたように「高宗航海駐鄞邦、曾把高橋作戦場、却恨元戎軽縦敵、複教兀術流銭塘」。古代には、人々は金国の兵隊を「韃子」と呼んでいたが、金国の兵隊が莚に滑って転んで破られた後、寧波人は莚のことを「滑子」と呼ぶようになった。

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